明治39年(1906)発表。
『平家物語』のうち、一ノ谷の戦いを歌にしたもので、「敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)」という副題がついています。
1番は無官大夫平敦盛、2番は薩摩守平忠度が主人公になっています。
一ノ谷で、源氏の武将・熊谷次郎直実(なおざね)は、海に逃れようとしていた若武者を呼び返し、組み敷きました。顔を見ると、自分の息子と同年配の少年だったので、見逃そうとしましたが、味方が近づいてきたので、やむなく首をはねました。それが平敦盛でした。
あとになって、熊谷直実はこのできごとに世の無常を感じて出家したと伝えられます。ただし、出家の原因は、母方の叔父との領地争いに敗れたことだったというのが史実のようです。
2番に出てくる「わが師」は『千載和歌集』の選者・藤原俊成(しゅんぜい)。俊成は藤原定家の父です。
忠度は平家都落ちの途中で京都に引き返し、深夜ひそかに俊成を訪ね、自作の何首かを託しました。そのうちの1首「さゝ波や志賀の都はあれにしを昔なからの山さくらかな」が『千載和歌集』に「詠み人知らず」で載っています。
俊成が「詠み人知らず」にしたのは、平家が朝敵(ちょうてき)のため、本名では載せられなかったことによります。
平忠度が箙(矢入れ)につけていた「花や今宵」の歌は、「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」。
かつては質朴な武士集団だった平氏は、権力を握ると公家化しました。それとともに忠度や敦盛のような文化人・教養人が何人も出ましたが、武家としては軟弱化したわけです。その結果、地方で質実剛健な生活を続けていた源氏に敗れることになったのでしょう。(「二木紘三のうた物語」より)
使用した楽譜はトリム楽譜出版「フルートが奏でる心の歌」です。
0コメント